トラクターが通ったあと
大規模事業者が、大資本で我々の花店小売業界に参入してきた。そして市場は、大規模事業者同士の戦場になった。
もともと私たちが耕してきた畑だった。それがトラクターのような彼らに刈り取られ、我々もとからの花店は、彼らがこぼした落穂を拾っている。
長いあいだ、そう思ってきた。
腹が立っていた
ここは間違えられたくないのだが、負けたことに腹を立てていたのではない。
萎れた花が売られている。花を知らない店員が売っている。ただきれいで簡単そうに見えるから参入した、という体制が透けて見える。
そこに腹が立った。売上を取られたからではない。扱いが雑だったからだ。
私たちが大切にしてきたものが、瞬く間に崩れていった。
そして、これは言いにくいのだが——その矛先は、それを許す生活者にも向いていたのかもしれない。
萎れた花が、売れていく。誰も文句を言わない。花とはその程度のものだったのか、と思った。
一度は、こう考えることにした
彼らは彼らなりに、大資本を使って一か八かの勝負に出たのだ。我々にはそれができない。ただ大切なものを守りながら、小さな商いを続けている。
そう思うことにした。公平でありたかった。
でも、それも違う
スーパーにとって、花コーナーは一か八かではない。すでに持っている棚に、粗利の実験を一つ足しただけだ。失敗しても本体は痛まない。
非対称なのは、逆の方だった。彼らには小さな賭け、こちらには生活そのもの。
そして、これが肝心なのだが——その温度差こそが、萎れた花と知識のない店員の理由である。どうでもいいから、そうなる。
腹が立つ話だが、同時に朗報でもある。
関心のない相手は、決して上手くならない。
落穂の中身
では、我々が拾っているものは何か。
日常の花は、価格と利便性で決まる。そこは資本と物流で決着がつく。勝ち目はないし、争っても仕方がない。
そして、いま思えば——あのとき萎れた花を買っていった人たちは、花を買っていたのではない。食卓に一色、足していただけだ。それはそれで正しい買い物であって、私が売るべきものではなかった。
腹を立てる相手を、間違えていたのだと思う。
彼らが取れなかったのは、「ここぞ」というときだ。葬儀。大切なお遣い物。一世一代の贈り物。生活者が、どうしても間違えたくない場面。
これは彼らが遠慮したのではない。構造上できないのだ。500円の花束で勝つための仕組み——集中仕入れ、低スキルで高回転の人員、標準化——が、そのまま高単価の仕事では致命的な欠陥になる。同じ会社が両方をやることはできない。
つまり、落ちてきたのではない。最初から、彼らのトラクターが入れない場所なのだ。
値段の話ではない
具体的に言えば、そこにあるのは高額商品であり、高額サービスだ。
ただ、これは言い方を間違えると危ない。
スーパーでも、値段の高い花束を並べること自体はできる。彼らにできないのは、失敗が許されない場面を任されることだ。
あの場面で客が買っているのは、花ではない。「間違いが起きない」という確証だ。誰が選んだのか。何かあったとき、誰が責任を持つのか。名前と顔がある。それが値段の中身である。
守るべきは価格帯ではない。
失敗が許されない領域だ。
順番を取り違えると、ただ高いものを並べる店になる。逆なのだ。その領域を握った結果として、値段が付く。
スーパーやホームセンターと同じ商品を並べて、ただ忙しくしているくらいなら、落穂の中身を突き詰めた方がいい。
「落穂ひろい」という言葉を、やめた
この状況を、私は長いこと「落穂ひろい」と呼んでいた。気に入っていた言葉で、一時はこのサイトの名前にしようとまで思っていた。
だが、ここまで書いて気づいた。その言葉は、もう内容と合っていない。
落穂とは、収穫のときにこぼれ落ちたもの、取るに足らないもののことだ。しかし私がここで書いたのは、彼らがそもそも収穫できない領域の話である。地面に落ちた穂ではない。彼らの機械が入れない畑に、別の作物が育っている。
それに、落穂拾いは待つ姿勢である。落ちてくるのを拾う。だが「ここぞ」の仕事は落ちてこない。何年もかけた関係と信用の上にしか立たない。言葉が求める姿勢と、実際に必要な姿勢が、逆を向いていた。
だから、やめた。
怒りから出てきた言葉で、自分の商いを説明し続けていた。そのことに気づけただけでも、書いた甲斐はあったと思う。